やらぬ後悔よりやる後悔

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「ねぇKookie,エイゴを話す国に行く?」

小学校3年生。1学期も始まりしばらくしたころだったか。母から何の前触れもなくカジュアルに聞かれた。私は「エイゴって?」と聞き返した。若干9歳、日本語以外の言語があることも知らなかった。生まれ育った小さな田舎町が、当時の私の世界全てだった。

日本人の両親のもとに生まれ、関東近郊の田舎町で育ち、父親の赴任のため渡米。アメリカの南部KY州の現地校に放り込まれ、同地域に日本人は5-6家庭はあったもののクラスには自分がたった一人のアジア人。まさに日々がサバイバル。

小学生といえど、立派に文化やソーシャルグループがある。その中で唯一のアジア人として生き延びるのは容易ではない。もちろん英語もしゃべれない。単語どころかアルファベットすらすべて知らない。自分のKYライフをさらに難しいものにしたのは、当時の私の内気な性格だった。日本でもリーダー格の友達の後ろに金魚のフンのようにくっついていくタイプだった。日本でだって授業時に挙手して発言なんて死んでもしない児童、そんな「ザ・日本人小3女子」が個人主義の国アメリカに…!

渡米して直後は一日の流れもわからず、「自分の周りでいったい何が起こっているの?」状態。アメリカの現地校ではちょくちょくField Tripなるものがあり、近くの消防署で消火訓練をする、広い公園にピクニックに行く、ダウンタウンの劇場に演劇を見に行く、博物館を訪れる…など多様なイベントが高頻度である。訳がわらからずスクールバスに乗り込み、行ってみて初めて「あぁ、今日は〇〇のトリップだったんだ!」と知るという。今思うとそんな状態でよくクラスに座ってたな。絶対朝のホームルームで説明あったはずだよね。微塵も聞き取れなかった。文字通り、サバイバル。

暗黒時代

いじめ That Japanese kid…

内気な性格、英語力ゼロの自分は、日々何を問いかけられてもあいまいな笑みを浮かべ、何も言葉を発せなかった。転校当初は黄色い肌、黒髪、日本人であるということを珍しがられ、やれ自分の名前を漢字で書けだの、折り鶴を折れだの「友達」に群がられてはリクエストに応えていた。それも一時を過ぎれば、何を問いかけてもはっきり答えず、意見も言わない人間をかまってくれるもの好きはいなくなった。むしろだんだんと馬鹿にされ、陰口をたたかれるようになった。当時の自分を弁護すれば言語能力的に答えられなかったのだが、確かにシャイな性格もあり、身振り手振りでアグレッシブに伝えようとするエネルギーは持ち合わせていなかったのだ。

英語がわからなくても陰口わかる

人間ってすごいよ。言葉がわからなくても、なんとなく言わんとすることが「わかる」。離れていても自分のことを言われている、しかも悪口を言われていることは確信持てるほど伝わってくる。母が毎日持たせてくれたおにぎりのお弁当は、黒い海苔を笑われた。おいしいタコのバター焼きは、「臭い」と目の前で鼻をつままれた。トイレでも、クラスでも、話される内容までは不明だが、ちらちら投げられる目線と、わっと沸く意地の悪い空気漂う笑い声は本当に不快な気持ちになった。確かに、そのうちの数割は被害妄想が入っていたかもしれないが…。

そんな時、私はひたすら耐えていた。目に涙をためて耐えていた。唯一の希望は、双子の姉が同じクラスにいてくれたこと。もちろん、彼女も私と同じ暗黒時代を過ごした。そして数少ないが、ニュートラルに接し、世話を焼いてくれる友達が数名いたこと。今思うと不思議だが、学校から逃げようという選択肢はわいてこなかった。これだけつらい学校生活なら不登校にでもなりそうなもんだが、家にいたいと親に言った記憶はない。学校は行くものだと自分でも信じていたのだろうか。当時、土曜日だけ通っていた補習校が本当に楽しかった。クラスメートは、それぞれが各地の現地校で各々戦い、毎週土曜日だけ集う戦友のような感覚だった。

作文が暗くなる…軽いうつ状態?

わずかだが、これらの支えのおかげで立ち直れないほど心が折れることはなかった。しかし、徐々に軽いうつ状態になっていったのだと思う。「思う」と書くのは、医療機関で診断を受けていないことと、当時小学生の自分は客観的に自分の心の状態を俯瞰、分析できるまで精神的に発達していなかったため、記憶からの憶測でしかないからである。顕著に表れたのは、補習校で作文課題が出るたびにどんなテーマを書こうとしても暗く重苦しい内容になってしまうことだった。もとから作文は苦手。でも意に反して暗くなってしまうのはなんでだろうかと違和感を感じていた。苦しい、悲しい感情を感じなくて済むように感情を無くしていた時期があった。心の厚くて暗く、重苦しい雲の原因や解決法がわからず、かといって周りに相談することもなく、この状態はなんだろうかと不思議に思いながら日々をやり過ごしていた。

Do you like turkey?

ある日、転機が訪れた。

いつものようにカフェテリアで昼食をとっていると、たまたま隣に座った仲良しのLorenが私にDo you like turkey?と一言。大人しくあまり自己表現できなかった私を気にかけ、都度世話を焼いてくれていた友達のLoren。その頃、私はジャンキーな給食にも慣れ、月間メニュー表の中から好物の出る日を選び、お弁当をスキップして1ドル25セントの学校給食を楽しむようになっていた。日本では珍しいターキーは私のお気に入りメニューの一つであり、おいしそうにもぐもぐ頬張っていた姿を見てか、Do you like turkey?(ターキー好き?)と聞かれた。

渡米して1年も経つとほぼ100%英語を聞き取れるようになった私は、もちろん何を聞かれているか正確に理解できた。しかし、発言することを極度に恐れていた私は口をつぐみ、答えに迷い、質問の深読みをしたのだった。

実はLorenはいつもランチはカフェテリア、今日のターキーは苦手なようでEwwwwww!とフォークでつんつんしていた。そして私はもちろんそれを目撃していたので、聞かれた直後の脳内では答えるべき「正解」を探し始める。「本当は好きだけど、好きって言ったらなんて思われるかな?」「こんな気持ち悪いの食べてる私、気持ち悪がられる?」「嫌いって合わせといたほうがいいかな…」

それまでバクバク食べていた手を止め、小さな声でNo…と答え、食べたかったターキーを皿に置いたことを今でも覚えている。当のLorenもそれをみて予想外の反応だったのだろう、(だって一瞬前までめちゃくちゃおいに食べてたからネ!)え、好きじゃないの…?といった戸惑う様子がくみ取れた。「あ、Lorenは意地悪な気持ちで聞いたんじゃないんだ、うんって言って大丈夫だったんだ…。でもNoって言っちゃったしな…食べたい、でも食べれない…泣」

そんな二人の微妙な空気を跳ねのけたのは、反対側に座っていた黒人のBrian。「え、俺ターキー大好き!うまくね?」っとさらにばくっと頬張る。Lorenに対し、「これおいしいと思わないなんて人生損してるねー!!!ちょうだい?笑」と太陽のような明るさと突風のような勢いで、皿の上でつんつんされたそれをかっさらっていった。

衝撃。

いいんだ…!かっこいい!好きなものは好きって言えばいいんだ!別に好きでも嫌いでも、意見を求められているときには自分の心を答えればいい。相手の反応を見て合わせるような軸のない人間だから理解されないんだ。質問する者は「合わせて」ほしいんじゃない。「わたしが」どう思うのかを聞いていたんだ…。これまで私に対して質問をしてくれた教師、友達、いじめっこたちの顔が浮かび、これまでのすべてに通ずる一本の筋を見つけた感覚だった。

世界は自分の鏡

それから私は人が変わった。いや、変えた。

いつまでもやられっぱなしはいや。お前らが私をからかってることは聞こえてるんだ、わかってるんだ!もう言いなりになんてなるもんか。あからさまに意地悪をされ、いつもなら黙ってやり過ごすか、うるうる目に涙をためて飲み込むところを、渾身の力を振り絞ってNO!を突き付けてやったのだ。

よくからかってきた黒人グループのボス、Tanishaの「はっ!」っとした顔は忘れない。「…Kookieが…しゃべった…!!!!」

初めは単語レベルの発言だった。それから徐々に短い文章で。長めの文は少なくとも3,4回は頭の中で言いたいことを唱え、文法ミスがないかを確認してから勇気を出して5回目の暗唱をやっと声に出す、といった具合だ。

すると周りの反応がぱーーーーっと、面白いように変化した。

一瞬の出来事だった。

それまで陰口をたたいていたいじめっ子もちょっかいを出すことはなくなり、これまでつかず離れずの距離にいた子たちもどんどん興味をぶつけてくるようになった。ボールを打ち返せば打ち返すほど相手はさらに面白がってくれる、仲が深まる、自分の発言力に自信もつく。間違えたっていいやと思えるようになった。やっと、That Japanese kidではなく、Kookieとして受け入れてもらえた経験だった。まさに自分の態度を変えたことで周りの反応が180度変わった。しかも一瞬で。自分次第なんだ。自分の在り方で周りは変わってくるんだ…!

ユニークな視点で場に貢献すること=価値

個人主義のアメリカでは、発言すること=自分の存在意義を場で勝ち取るイメージ。教室で教師が疑問を投げかければ、ほぼ全員の手がバッと上がる。説明途中でも勢いよく手が上がり、何かと思えば教師の発言から考えたこと、感じたこと、関連するMy storyをシェアしようとするのだ。度重なる中断に話が進まず、教師が上がった手を制して「次に進みましょう!」と打ち切らねばならない状況。

発言の質は正直まちまち。笑 それどーでもよくね?みたいなものもあるし、いい気づきなら教師がアイディアを採用し、全体のレッスンにつなげる発展型のクラスになることも多々あった。ただ、質はどうであれ、常にアクティブリスナーとなり、意見や気づきを発信する姿勢に価値があり、それを評価しようとする文化は子供ながらすぐに感じ取れた。日本とは全く異なる物差しだった。日本バージョンの「まじめな優等生」しか知らなかった自分にとってはこれまた衝撃だった。

不完全な英語でもその姿勢を見せれば彼らはもっと早い段階から受け入れてくれたのでだろう。日本基準で「正解」や「正しい意見」、「きれいな答え」を必死に探し、その答えにも、伝える英語力にも自信がないため黙っていた私は、アメリカ的には「価値の低い存在」として見られていたのだと感じる。極めつけは、「聞くたびに顔色をうかがい揺れる軸のなさ」。それらをすべて払しょくし、自分の殻を破った時、私のアメリカ生活は一変した。

日々が充実した。英語力、特に発言力が格段に伸びた。友達付き合いが濃くなった。対等に扱ってもらえるようになった。心からの興味で日本という国の文化や、私について理解してくれた。本当の「仲間」になれた。

渡米から約2年弱が経っていた。

10歳、人生最大の後悔

こうして自分の殻を破った瞬間、灰色だったアメリカ生活が一瞬でカラフルなビビッドカラーに姿を変えた。心の底からアメリカ生活を楽しめるようになり、毎日学校が楽しくて仕方がなくなった。一方で、毎日が楽しくなればなるほど、今度は強烈な後悔の念がわいてきた。

こんな少しの勇気と行動で日々が180度変わった。自分の姿勢、向き合う態度を変えただけで周りの反応がこうも変わるとは。あの長くて永遠に思えた暗黒時代は、自分が作り出していたものだった。これまでの苦しみは何だったのか。すべて自分次第だった。なぜもっと早く勇気を出せなかったのか。なぜもっと主張しなかったのか。どれだけのチャンスと楽しみを逃したんだろう?どれだけのエネルギーと涙を無駄にしたんだろう。。。

もっと早くから気づけていたら。

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