自分にとって文章を書くということはセラピーだ。
もやもやたまっているものを吐き出すとすーっと落ち着く。自分の気持ちに気づけ、感情が整理される。昔ながらの紙とペンも好きだし、パソコンに吐き出すことも好き。会社で働く現在も、朝、始業前にデスクにつくといつもの「To Do」ワードファイルを呼び出し一日のタスクを書き出すことに加え、心のもやもやがある場合はそこに心に思うままを吐き出している。夫婦喧嘩をした朝、子供をイライラ保育園に放り込んできた朝、家族の体調が心配な朝、心を落ち着けて仕事に集中できるのはこの朝の「セラピー習慣」があるからだ。
学生時代も板書や先生の言葉を漏らさぬよう書き留める一方で、余りがちなルーズリーフの右余白に今日の気分、当時考えていたこと、はまっている歌の歌詞などを書き留めていた。ノートを見ると授業を受けていたその瞬間の心の様まで浮き上がるように見て取れる。
第1子が生まれたときには紙のノートに育児記録をびっしりつけた。昭和かよ笑 さすがに第2子では面倒すぎてぴよログにお世話になった。育児アプリ、便利すぎ。毎日の想いを忘れたくなくて、2023年に生まれた長男の誕生日から5年日記なるものを続けてもうすぐ丸2年。この習慣のルーツはどこなのか。気づけばずっとやっているのでふと考えてみる。
アメリカ時代、母から「日記付けてみたら?」の提案だった。
言われた通り、適当なノートを用意して1日の出来事を書いてみた。当時小3の私の日記と言えば、昼食や夕飯で出た好物や、お決まりの「楽しかった」の一言二言だった。特に苦ではなく、コツコツ取り組むことが好きな性格でもあったため続けていると、学校で感じるいろいろな感情のはけ口となっていった。
当時の日記を読み返すと、小4、小5、小6…と年を取るたび、日記の内容が成熟していくのが面白いようにわかる。あれだ、「アルジャーノンに花束を」を読んでいる気分。どんどん知能が発達し、ひらがながちなページがだんだんと大人びて整った、適度に漢字が使われた読みやすい文章へと変化していく。出来事を観察する視点、それを記す表現力、自分の内面分析などが年を追うごとに複雑になっていっている。書きたいことはどんどんあふれるのに文字を書く手の速さが追い付かず、湧き出る思考の泉をこぼれないように最大限のスピードで必死にノートに受けていく。早く早く!と腕が痛くなるほど一気に脳内の声を吐き出していたことを思い出す。書き終えたときのすっきり感と言ったら!
帰国し、中学校生活で友人関係、日本文化に馴染もうとする中で壁を感じると日記を読み返していた。すると過去の自分が現地校で必死に戦う様子が見て取れ、勇気がわいてきた。「あれを乗り越えられたなら、今目の前にある悩みなんて大したことないな。」「だって言葉通じるじゃん。話してみよう。」日記は、今の自分の自信を形作る土台なのかもしれない。自分なら何でもできる!なんてそんなたいそうな自信ではない。でも確かに日々悩みながらも対峙し続け、ブレークスルーを経験して人生を自分のものとして歩んできた軌跡、それが20冊近くのあの日記なのだと思う。もう古いものは今から25年以上前のものになるが、ページを開くと、夜寝る前のひと時に一日を振り返り、眠気と腕の痛みを感じながら一気に書き上げた当時の情景がそのまま思い出される。
今、またブログを始めている。
心のセラピーを世の中へ大公開だ。
少しでも私自身の思い悩んできた道のりや、気づきを得て走る様子をシェアすることで世界のどこかの誰かの肩の力を抜くお手伝いが出来たらいいな。
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